平凡な大学生が日頃思うことを書き込むブログです


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環境展2007

今日インテックス大阪で開かれた環境展に行ってきました!
正直入場した時は場違いかな?と思ってましたが、展示についての質問をしたりしているうちに、「こういうことを勉強するべきなんだな」と感じてきました。
どういうことかというと、簡単に言えば現在稼動しているシステムの概要です。どんなシステムがあって、どういう働きをするのか…
まずそういった根本的でかつ基本的なことを知らなすぎだな~と痛感しました。
色々資料を貰ってきたので、これからみんなで読んでいこうと思います。
学生ですからね。

コラムでこういうことを言うのもかなり新鮮ですが(笑)
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# by twilight-line | 2007-09-07 22:56

水と対策

世界にはあらゆる価値観が混在していて、環境・状態によって決定される。
くどいようだが、その中で地球をまもるという意識の方向を統一することは非常に難しい。
今回は近年重要視される水に関して挙げてみる。

人間が使用出来る水の量は限られており、それが降水量の少ない地域となれば、その価値の高さについては言うまでもないだろう。
その「地域」であるアラブの国で、石油を蒸留させて水を得るという話を聞いた。
それが一体どのくらい温暖化に関与して来るのだろう。極めて危険な話だと思う。しかし我々がそれに口出しできるだろうか。我々の常識と、むこうでの常識はかならずしも同じであるとは言えない。特に水の価値観については。
しかしそうは言ってられないだろう。何故ならこれが地球規模の問題でもあるからだ。
こういう状況でも対策を考え出さなければならない。それが地球環境を研究する人間の義務であるから。

さて、その対策なのだが、やはりどう考えても経済的革命が必要だ。(ちなみに断定はできないが)
例としては、問題的な物質の排出を最大限に抑制することを大前提として、全ての企業が経済活動をする、そんな状況を生み出す。
或いは発展途上国が技術的に遅れをとらずに、なおかつ全ての国が立場的に均等な状況を保つ。

前者は言葉通りだが、僕が理想と考えるのは後者だ。というより「争いなき発展と部分的退化」。
近年の各国の経済成長は競争から生まれたと言っても過言ではない。そしてその競争によって環境問題を無視しがちだ。ならばエミッション競争をなくしてやればいい。そして退化の、つまり原始化の方向の競争を促進すべきではないか。
もちろん水のみならずだ。何らかの方法で、自然環境破壊と技術発展は独立させることができるはず。
もしそれが叶えば・・・そんな未来をどうにか実現させるのが僕らの義務であるように思います。
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# by twilight-line | 2007-05-06 00:03 | 環境

人類の課題

地球上に生活しているすべての人類の中で、地球の環境問題に対して本気で考え、なんとかしようと思っている人間が一体どれだけいるだろうか。
以前に述べたが、人間の思想を決定付ける大半がその人間の境遇であるので、地球レベルでの対策の実行というのは本当に難しい。
さらに、我々の中の存続の危機感というものがかなり薄いことも大きな問題だ。
こうした状況で、一方現在も地球の寿命は螺旋階段を下るように削られている。

より具体的な話をする。
例えば温暖化。京都議定書などで周知のとおり、現在CO2を始めとした温室効果ガスの排出量削減が重要な課題となっている。
しかし議会を開いても目標数値には遠く及ばないというのが悲しい現状なのだ。
その目標数値というのは例えば、CO2濃度でいうと、2050年までに全世界で今より平均50%の削減が求められ、日本の場合、約80%の削減が必要になってくる。
これは前後の推移をみると限りなく不可能に近い値で、しかもCO2濃度というものは、たとえ排出が完全に抑制されたとしても、慣性によってしばらくは増加し続けるのだ。
しかしそれを見込んだ上で、もし目標値を大幅に下回り続けた時、間違いなく取り返しのつかないことになる。

どこかで聞いたのだが、人間が種族レベルで、この問題に団結して立ち向かうという状況を作り出すためには、一度本当にその事態を経験し、本能レベルで免疫を持つ必要があるのだそうだ。
つまり理性では太刀打ちできない問題であると、そういう風に解釈されているのだ。

僕は今大学で環境について勉強しているのだが、知れば知るほど何をすべきかの難しさが露呈してくる。
この学問の難しいところは、環境保全や新エネルギー開発が、とても曖昧に思えてしまうところにある気がする。

極論で言えば人間が滅んでしまえばいい、すると地球は本当の意味で安心できる。
あるいは、地球を捨てて他の惑星へ移住すればいい、すると地球がどうなっても関係ない。

しかしそれではいけない。それらが否定されていることを前提として、自然環境をいかに護るか、それを研究するのだという。
それがとても難しい。つまり人間のエゴの部分を抑制する手段を考え出さなければならないということ。
それが何なのか、とりあえずの当面の目標はそれの発見ということになるだろう。

だがそれらはあくまで研究の話。
僕たちが日常ですべきこともたくさんある。温室効果ガスの排出量の全体の約13%が家庭から出ていることも頭に入れておかなければならない。決して軽視できるものではないのだ。
だからこそ、一人一人がこの現状に向き合う必要がある。そして自分で考えて、小さなことでも出来ることは山ほどあるので、それらを実行することが地球にとっても人類にとっても、今後欠かすことの出来ない課題になる。
いや、今後ではない。今すぐにでも。
人間が未来においても生活できるであろうところまで、
2050年まであと43年、一致団結して80という数字に挑戦していこうじゃないですか。
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# by twilight-line | 2007-04-25 18:31 | 環境

雨の夜桜

帰りの電車の中、僕は森鴎外を片手に一人小説の世界に入り込んでいた。
そういう時、仮に席が開こうが扉の前で立ったままというのがいつものパターンになっている。
今日もそんなわけでのんびりしていると、案の定駅を一つ通り過ぎてしまった。
しかしそのことに対して僕はとりわけ焦りや喪失感を感じず、むしろ開き直って、戻りの電車に乗るより徒歩で帰宅することにした。
さらに今日はそれに留まらない。駅を出て少し歩いたくらいで僕は急に遠回りをしたくなったのだ。
家に帰ってもすることがない。厳密にはそんなことはないのだが、どうしても娯楽に浸りたくなったのだ。
それで何かDVDを借りてから帰ることにした。

車道沿いの夜道を行くのは僕のみで、しかし不思議と心は踊るような気分だった。
霧吹きで上からかけられたような小雨の中を敢えて傘をささずに歩く。
そんな心情はDVDを借りたことに由来するものではなく、明確には分からないが、多分僕自身の欲求が満たされたことに由来していたのだろう。

つまり僕は雨の夜が好きなのだ。

歩みを続けること30分、急な上り坂に入った。
疲労はかなりきていたが、せっかくここまで来たのだから・・・、という一念で足を動かし続けた。
バスが横を通り越す。疲労に打ち勝って見逃したそれだ。
瞬間、当然僕には歩く以外の選択肢は消えてしまったので、逆にすっきりした気持ちだった。
そしてついに山を登りきり、あとは平らな道を300mほど行くのみとなった。
その時には夜道を味わう余裕も復活していた。
そのまま少し歩いたところで、道なりの左手に養護学校があるのだが、そこの車道沿い側に子供が野球をできるほどの公園がある。
時刻はすでに9時をまわっている上、先ほどから雨が強くなって来たので、人の姿というものはない。
しかしただ一つ僕の目を惹く光景がそこにあった。
それが恐らく今年最後になるであろう夜桜だった。
公園の中にただ一本、霧雨にうたれ、根元の方からライトアップされた、幻想的な存在を見たのだ。
それは春の終わりの美そのものだったのかもしれない。
僕はそれを綺麗だとは思いながら、公園の前に立ち止まることはせず、そのまま残り少ない帰路を歩いた。
その中で思う。
今年の春は特別長く感じた。その為に雨の中の夜桜の光景が特別強く心に残る。
それは僕の固執とその桜が重なって見えたからかもしれない。
そして今日は今までの態度を洗い流して前へ進む転機なのかもしれない。

いつの間にか傘をさしていた僕は、そんな気持ちで家の玄関の門を通った。

4月16日
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# by twilight-line | 2007-04-18 10:12 | 雑記

世界と人間の変化

外に出ると春を感じずにはいられない。気づけばもう4月だ。
春独特の空気、また時々聞こえるウグイスの鳴き声など、陰鬱な気分はあっという間に吹っ飛んでしまう。
こういう後押しがあって、ようやく自分は幸せだなと感じることが出来た。
(それほど人間は欲深いということなのだろうが・・・)



思えば去年の今頃、僕は同じように外を歩くことがあったが、そのときは何を感じていただろう。
それは間違いなく晴れ晴れしたような気分ではなかった。


大学受験に失敗した去年の自分は、確かにそれを自覚していた。
「この状況が変われば世界も違って見えるんだろうな」
「今空気が重たく感じるのはこの状況のせいなんだ」


実際それは正解だった。


同じ世界に生きていながら、人々はそれぞれ違った世界を見ている。
つまり世界観の捕らえ方は無限にあるということだ。



今でこそ確かに言えるのだが、「捕らえ方」自体は本当に脆く壊れやすい。
それにも関わらず、人がその世界観から容易に脱しにくいという現実があるのは、その人自身の「状況」に束縛されているからだ。


宗教の存在や、各国際問題での概念の衝突などからもそれはうかがえるだろう。


結局統一論、支配論というのはそういう理解を前提として、人々の生活状況を改変することが必要条件になってくるのだと思う。


最近ニュースでもよく見かけるが、それを誤った方向へ用いようとする人間がちらほらいる。
そういったバカな頭も、また状況によって束縛されて誕生したというのだろうか。


いっそ状況が普遍化したら衝突というのはなくなるのではないか。
どこまでも無色の世界・・・
それが叶えられたら今度こそ人間はおしまいだろう。
なんだかんだで結局この世界を完全に真っ平らにする術というのは存在しない。


これは人類の最大の矛盾だと思う。



・・・かなり話題が逸れたが

まあとにかく、あの時の僕の考えたことは確かに正しかった。
なぜなら今、世界が若干明るく感じられるから
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# by twilight-line | 2007-04-01 18:23 | 雑記